赤ニシン


壱 ミンミン蝉の煩く叫ぶ日。 女は舗装もされていない道を辿って、一軒の店先に立った。 この街は、都会と田舎の真ん中ならば大抵の街がそうであるように、 古今東西混交の佇まいである。 重々しく怪しい古風な店舗は、すんなりとその風景に溶け込んでいた。 ここでは、立ち尽くす一般会社員風の女が異質である。 心を決めたらしい女が店内に消えた後、「幸福屋」と書かれた暖簾は 風も無いのにひたりと揺れた。 ―――――― 昼間でも薄暗い店内には、カウンターに片肘を付いている男が座していた。 長い髪のせいで表情は窺い知れないが、女が入って来たにも関わらず何ら反応を示さない所を見るに、 どうやら眠りこけているらしい。 女は声を掛けるのを躊躇って、店内を見回した。 突っ伏して眠る男の奥には大きな棚。戸はほとんど閉じられているが、 一か所半開きの戸が窺える。 そこには大小形も様々な壺や瓶がぎっしりと詰め込まれていた。 棚のすぐ隣には、奥に繋がるらしい空間。 建物の外観から想像するに、そこは二階に通ずる階段がおさまっているのだろう。 残りは店主であろう男が突っ伏す長机のみ。 簡素な店内である。 (こんなところ早く出よう) 今さらながらに女は決心した。 たまの休み、足の向くまま歩き続けていた結果がこれである。 途中見かけた広告の文句に惹かれ、この「幸福屋」にやって来た。 しかし、この分では恐らく、あの文言は単なる話題作りなのだろう。 (いつも私は時間を無駄にする) こういう無意味な時間の使い方をしているうちに、いずれ全て使い果たしてしまうのだろう。 女は、橙の電球が吊り下げられただけのひんやりした店内に背を向ける。 ざり。 むき出しの硬い地面にヒールが擦れた。 幽かな音だったが、店主とおぼしき男は目を覚ましたらしい。 「んぐあ、ふゃ」 形容しがたい寝言(あるいは夢中で発した言葉の続き)を呟いて、 鬱陶しい、真黒で緩くうねった髪をその手で乱した。 「き、客?」 女は図らずもムッとした。 何を驚愕することがあるのか。失礼な男である。 今まで眠り呆けておいて、第一声が「客?」とは。 「そうです。広告を見てきたので何のお店かもあまり分かっていないのですが、 今日はお休みだったみたいですね。失礼します」 「奇特な人だ」 女にさらに苛立ちが募る。 皮肉交じりの口上は、全く意に介されていないようだ。 男が、実際何も無かったかのような笑みと共に話し掛けた。かなり胡散臭い口端の笑みが不快である。 「失礼しました。私、天戸と申しまして、この店の主を申しつかっております。 今は一応営業時間ですよ、残念ながら。して、広告に何かご不備が?」 「帰ります」 女が今日ほど自分の判断を呪った日はない。 意味不明の文句 ――不幸買います そんな怪しげで訳の分からない文章を、この男は平気で広告に載せているのだ。 ほんの気まぐれとはいえそれに惹かれた自分にも落ち度はあるが、それにしても。 全く、非常識で不可解な店に入ってしまったものである。 「まあまあ、そう仰らず……おや」 女は飄々となだめに掛かる男を無視して店を出ようとするが、 それは叶わなかった。 突然入口に現われた少年……少女かもしれないが、とにかく子供にぶつかったのだ。 ちりん、と涼しげな鈴の音。 「ごめんなさい、大丈夫?」 女が鼻を押さえる子供の顔を覗き込んで心配そうな声を出すと、 子供は涙目でこくこくと頷いた。 (……可愛い) それに気丈だ。禍々しい幸福屋の空気には似合わない。 子供は、何も言わず一礼すると店主の後ろ、階段を上って二階に消えた。 「彼女は一与と言いまして、居候兼手伝いです。女の子ですが、あれで強い子ですよ。 それで、何か分からないことがあれば伺いますが」 (話戻してきやがった) すっかり一与に毒気を抜かれた女は、用意されていた椅子に座り、カウンターを挟んで 店主と向かい合った。 「分からないこと……?全部です」