赤ニシン


弐 「ご理解頂けましたでしょうか」 つまり、この信用ならない男の言う事によれば(ある種の怪談なり都市伝説めいた説明ではあったが) 女の不幸を買い取り、それを主食とするモノに売却することでこの男が利益を得るらしい。 女のは肩から力が抜けた。 見慣れぬ街の怪しい店で不幸がどうのと言うのだから、妙な絵柄の壺やら安っぽい水晶玉やらを売りつけられるのではないかと 内心疑っていたのだ。 しかし、男曰く女が「不幸を売る」に際してすべきことはただ一つ、「契約書に署名する」こと。 住所だの電話番号だのを見知らぬ男に晒す必要は無く、ただ薄っぺらい一枚の紙に名前を書くだけなのだ。 (ひょっとしたら、やっと運が向いてきたのかもしれない) 女は内心ほくそ笑んだ。 金持ちの狂人か、はたまた趣味の悪いお遊びかは知らないがとにかく自分が失うものは何一つ無い。 ……名前程度は署名してやっても構わないだろう。 ただ運よくチラシの文句を目にしたというただそれだけのことで小遣い程度の金が手に入るのである。 不幸を売るという直前になって運が向いてきたというのは一寸可笑しな話であるが、事実幸運であると言わざるを得ない。 ただ一つ、胸につかえるような不安があった。「不幸を主食とするモノ」という訳のわからない存在だ。 まるで妖怪か何かのような口ぶりであるが、技術と現実を手に入れたこの国によもやそんな怪しげなモノが存在してなるものか。 恐らく誰かを喩えてそう言ったのであろうし、そうであればまさに「他人の不幸は蜜の味」という言葉がぴったり似合う。 全くどいつもこいつも趣味の悪い輩ばかりだと、女は眉間に皺を寄せた。 「はは、お疑いになるのも無理はありません。当方も無理にとは言いませんよ、用が無ければお帰りくだすっても」 「いえ、売ります」 狂人だろうがお遊びだろうが、せっかくの機会なのだ。無下にするには少々惜しい。 女が「売る」と言った途端に、男は今まで以上に唇を横に広げた。今や満面の笑みといった風情である。 しかし女が表情の変化に気付く前に、その妙に嬉しそうな口元は再び怪しげな微笑に戻ってしまった。 「成程、成程、よい判断です!さあ、そうと決まれば気の変わらないうちに」 「私はあなたの気が変わらないかが心配ですよ」 店主は「ははは」と間の抜けた笑い声を上げて卓上にどこからか取り出した一枚の紙をひらりと載せた。 灰色がかった安っぽい藁半紙に、決して下手ではないが乱雲のような激しく癖のある筆字で(恐らく)「契約書」とある。 その下に少し小さな字で甲は乙に云々。 男は最下段の署名欄を指して「ほら、ここです」と言った。 「ええ。ペンを貸してくださいます?」 「おっと失敬」 手渡された万年筆が店内の灯りを反射してきらりと光った。 さてこれで契約完了だ、と藁半紙にペン先を乗せようとした時だ。 男がその下に素早く手を差し込んで紙を覆ってしまい、女の方をじいっと見た。 正確には、長い髪に隠されてその目がどちらを向いているのかさえ分からないのであるが。 「あの……」 戸惑う女の姿にも知らぬ顔で一方向を見つめ続ける男に、女はただ恐怖を感じた。 (ややもすると、あの髪の下には眼球なんて無くて、ただぽっかりと黒い眼窩が空いているだけなのではないかしら) 昼だと言うのに薄暗い店内と相まってそんな妄想さえ頭に浮かぶ。 女はすぐにでも逃げ出したい気持ちになって、まるで男を刺激するのを恐れるようにゆっくりとペンを持ち上げた。 「契約が完了致しましたら」 「え、ええ、何か」 女は上ずった声を上げた。 あんまり唐突に男が話し始めたので、女は危うく借り物の万年筆を投げ出してしまいそうになるくらい吃驚して反射的に声を上げてしまったのだ。 相変わらず男は一点を見つめ続けているが、その状態で堰を切った様に早口でまくし立て始めた。 「商品の特性上――ああ、その事は先に説明した事でおおよそ理解して頂けたかと思いましたが、 あえて言うなら何しろ形無きものであると同時に別の顧客に売却して初めて価値が生まれる商品であるので、 と言いますのはつまり、私の、私自身の利益の為に申します事なので、商売人としては僭越な申し上げ方をするのですが 返品はご遠慮願いたいのですよ、ご遠慮頂かなくともまず不可能と言うべきなのでしょうが、 なにしろもう別のお方の胃袋の中に収まったものを引き摺り出してさあこれがあなたの不幸ですと言うのも ご存じのとおり全く無理な相談でありますので、――つまるところ、契約が成立しましたら当方貴女の不幸を返品は致しません」 「はあ」 一度に言われて女には理解が追いつかずにいたものの、最終的に言いたいことは一度売ったら不幸は返ってこない、という事らしい。 女はなあんだそんなことの為に脅かしたのか、と腹立たしいようなほっとしたような不思議な気持ちになって頷いた。 「構いません。誰も不幸なんて欲しいと思わないでしょう?……あなたのお客さん以外」 「まあ、そう思われても無理は御座いませんから否定は致しませんよ。それじゃあ言う事はきちんと言いましたから」 そう言って男はずいと契約書を差し出した。 「あとはご自分の手で」 男がにんまりと笑って藁半紙を瓶に詰める頃、女は蝉時雨の中、ほんの片時ほどの不可思議な体験を既に忘れかけていた。