赤ニシン


参 「ね、ね、一与ちゃん、今度はどうしようね、せっかくお金が入るのだからしばらく店を閉めて旅行にでも行こうか それとも良いものでも食べる?そうだな、そう言えば近頃髪が伸びたね。散髪にでも行ってらっしゃい」 「待て待て、借金があるだろ。返せよ」 男は橙がほの明るく照らす店内で卓越しに少女と向かい合っていた。 ちょうど昨日、ひょろ長い女が契約を交わしたその場で、一与はニコニコと笑っている。 一向口を聞く気配はない。昨日の女とは違い、気安い様子で卓にもたれ掛っていた。 そんな一与の隣で口を尖らせるのが、三十路越えの容姿にも関わらず未だ子供っぽいパーカーを羽織った男。 現代風の出で立ちが不釣り合いな店内であるが、その男は妙にしっくりと馴染んでいた。 「そろそろ来る頃だろう、一与、お茶を一杯入れてきておくれ」 「ああ、もうそんな時間か」 男が時計を見ると、夜も更けて丑三つ時。店内で声が途切れると一切が静寂に包まれ、まさに草木も眠る時刻である。 不幸屋の注文に少女は頷いて奥の闇へと消えていった。 入れ替わりのように店内には冷たい風が吹く。暖簾が揺れたが、妙な事に風の流れは店内から外に向かっている。 「ヤア、時間ちょうどだよカゲサル、さすが」 男が目を向けた先には、ニホンザルほどの大きさの黒いモノがちょこんと佇んでいた。 身体は小猿の様で、猫のような耳が二つ、気まぐれに形を変えながら頭のてっぺんに飛び出している。 その奇怪な生物を見ても男は驚かず、友達に接する様に片手を上げた。 カゲサルと呼ばれたそれは耳まで裂けんばかりに口を横に広げ、尖った歯を見せてニヤニヤ笑った。 「アタシが時間に遅れると思うかね、不幸屋」 「エエ、この前だって」 「カゲサルさんどうも」 「藤堂か、久方ぶり。不幸屋、アタシ昔の事は気にしない主義でね。この前は仕方なかった。何しろ半魚人魚の奴めが半分寄越せとうるさくて、断るのに手を焼いたんだ」 「なにしろ御馳走だからね。店にも時々しか入らないし」 「カゲサルさん、不幸屋のヤツに何か言ってやってください。相変わらず俺から借りた金を返さない」 「ハッハッハ」 二人と一匹の会話が弾む中、リン、と音を響かせて闇の中から一与が現れた。 その手には言われた通りに湯呑が三つ、湯気を上げている。 「ありがとう、一与ちゃん」 時間も遅いから、と一与を寝に行かせて、不幸屋は薄ぺらな藁半紙を取り出した。 「これが昨日の契約書。ご確認ください」 カゲサルが覗き込んで、真ん丸の赤い目をキロリと動かした。その目が半紙の文字を追うにつれて、顔には満足げな笑みが広がる。 藤堂と呼ばれたパーカーの男も興味深げに横から覗き込んだ。 しかし、男ははすぐに顔を顰め、不幸屋に苦言を呈した。 「相変わらず字が読めない」 「そりゃ私の落度じゃ無いね、読めないなら読める様に書けと言えばいい」 「アタシはいつもそう言っている。お前さんのやり口はいつも詐欺紛いだ」 呆れたように首を振ったカゲサルに我が意を得たりと膝を打つ藤堂だったが、不幸屋の方はどこ吹く風。 「こんな薄ぺらな幻想に騙されているようじゃ、身ぐるみ剥がされても文句は言えませんよ」 「また詭弁」 「ヒトってヤツはその『契約書』に嘘書いちゃいけないンだろ」 二人(一人と一匹)が呆れれば呆れるほど不幸屋の弁には熱が入るようである。 黒髪を揺らし、その奥の窺い知れない瞳に火を灯して、不幸屋は卓に手の平を叩きつけた 「嘘は書いていません。それどころか本来書く必要の無い細則までキチンと書いてるのに、誰もそれを読もうとしない」 「読めないからな」 「読まないのです」 睨み合う藤堂と不幸屋を尻目に、カゲサルは契約書に目を通して手を打った。 「よし、いつも通りだね。代金は置いてくから不幸を寄越しな」 不幸屋は無言で背後の戸棚からカゲサルの身体ほどもある大瓶を取り出し、無造作に卓に置いた。 瓶の口にはタグが取り付けられており、昨日の日付と金幾ら也というような覚書が記されている。 これこそが不幸屋の商品。人ならざる者に売りつけるための不幸がこの中でジッと次の持ち主を待っているのだ。 「確かに、受け取ったヨ。じゃあ一与ちゃんによろしく」 「半魚人魚に言伝を。お好みの食事が手に入る予感がするので、どうぞおいでくださいと」 カゲサルはヒラヒラと手を振って答え、闇に溶ける様に消え去った。 「厭な風。雨が降るなあ」 重苦しい黒の長髪を指でかき混ぜて不幸屋が呟く。 藤堂は暖簾を上げて空を見上げていた。