赤ニシン


肆 雨脚が強まるのを店の中から眺めているのは、不幸屋ではなく一与だった。 今にも眠ってしまいそうな半目で、卓に頬杖をついてうつらうつらしている。 本来ならばこの場には店の主、異端街の面々から「不幸屋」と呼ばれる男が座っているはずである。 しかし、彼は夜中までカゲサルを待っていた為に、まだ起きて来ない。 同じくらい遅くまで起きていたのだから、一与も眠気には勝てないだろう。 実際、一与は来もしない客を待つことを諦めて、とうとう目をつむった。雨音を子守唄に、穏やかな休息である。 どれくらい経っただろうか。 雨が弱まる気配は無い。それどころか風も強まった様子で、入口の床はぐっしょり濡れて色を変えていた。 不意に一与は目を覚まし、落ち着きなく店内を見回した。 何となく恐る恐る、背中側の戸棚を調べる。 無くなっている物は無い。最近入った不幸は昨夜カゲサルに売ってしまったが、他の瓶や壺はきちんとあるべき場所に納まっている。 ほっと安堵のため息を吐き、振り返って今度は息を飲んだ。 目の前に、のっぺらぼうの痩せた女が歪んだ顔を突き出していた。 「                」 何か言っているようなのだが、いかんせん口が無いので分からない。 厭な振動が空気を伝わるのみで、要領を得なかった。 背格好は確かに昨日この店で不幸を売って帰って行った女である。一与はチラと見ただけだったが、特徴的に細かったのでよく覚えていた。 しかし、彼女の顔には凹凸すら無く、のっぺりとした面だけが残っている。昨日までは確かに目鼻口が付いていたはずなのに。 そんな女が、顔があった場所を皺くちゃにして一与に掴みかかった。 「                        」 叫んでいる。 女は明らかな憎悪の念を込めて、一与に向かって叫んでいた。 指が一与の二の腕に食い込んで、もがく彼女を離そうとしない。 「一与を離しなさい」 不意に、店の奥から鋭い声が飛んだ。 顔の無い女が一瞬怯んだ隙に、一与はスルリと拘束を抜け出し、闇の中から現れた不幸屋の後ろに隠れた。 女を見据えたまま一言二言不幸屋が指示を出すと、少女は躊躇いなく店の奥へ消えてしまった。 「   」 「思ったよりも早くいらっしゃいましたね。私は言ったはずですよ、あなたのご不幸、返品は致しかねます」 冷たい微笑みを浮かべて男は続ける。 「幸と不幸は表裏一体。不幸が消えれば幸も消える。そして、山も谷も無いあなたの人生は、もはや主人公のものでは無くなってしまった」 「     」 「あなたは背景に甘んじた。あなた自身がそう決めた。どこにも問題はありません」 「         」 女は既に人間ではなかった。鬼でもなかった。しかし、その形相は憎しみで崩れ、空気を震わせて不幸屋に掴みかかった。 ふわりとそれを受け流し、男は口端を上げて笑う。 女は壁に勢いよくぶつかってゴンと頭蓋の音を響かせ、その衝撃か壁伝いにしゃがみ込んでしまった。 後ろから、のほほんとして不幸屋が声を掛けた。 「厭だなあ、だから私はきちんと確認したのですよ、でもあなた聞かなかったじゃないですか」 だから、と不幸屋は言葉を続けようとしたが、それは叶わなかった。 店の奥から再び一与が姿を現したのだ。それも、昨夜のカゲサルにも増して奇怪な友人を連れて。 半透明の水色が照明を受けててらてらと光り、内臓まで透けている。 カエルの化け物のような生物が、一与の膝くらいの高さにある黒目をきょろりと動かした。 「ちょうど良かった、半魚人魚。この方は、モブは厭だと泣いている。だが契約書は絶対だし、売った不幸は戻ってこない」 不幸屋の呼びかけに、半魚人魚と呼ばれた化物は目だけそちらに動かして応じた。 水音に似た声でおよそヒトには理解出来そうもない言語を喋っている。 身体は正面を向いているのに目は真横を向いて、しかも全然感情を見せないものだから気味が悪い。 「お節介だがこれが幸せなのさ。三者三様に」 また、水っぽい謎の言語。一与は女を恐れて不幸屋の着流しの袖にしがみついている。 半魚人魚は緩慢な動きで女の方を向くと、突然ぱっくり口を開けた。 そう大きい訳ではない蛇が自分の体ほどもある大きな獣を飲み込んでしまう事がある。 それに似て、半魚人魚はパクリと女の膝くらいまで一気に身体に詰め、それから腰、次に胸、そして最後に顔の無い頭をパクリパクリと飲み込んでしまった。 女は胸まで飲まれた時にやっと正気を取り戻したらしく、床に爪を立てて抵抗したが無駄であった。 よくもまあこんな小さな体に詰め込んだものだと呆れるほど、半魚人魚はパンパンに膨れている。しかし一日もすれば元の大きさに戻っていることだろう。 半魚人魚は何やら呟いて、店の奥へと消えて行った。言語が理解できずとも、何となく礼を言ったことは分かる。 見送るのだろう、一与もその後ろから追いかけて行った。 「全く、全く。これだから」 不幸屋は苛立って頭を掻きむしり、女が飲み込まれた場所をいつまでも見つめていた。